“ローソク送電/計画停電”:平成23年3月11日 午後2時46分 鎌倉の自宅の2階の書斎で海水淡水化方法と装置に関する特許を書いていた。トイレに立つために描きかけの図面をコンピュータのメモリーに入れたとたんに大きな揺れを感じた。直ぐに階下の母の寝室に急行。車椅子に乗せ、外に連れ出そうとしている時、更に大きな第2波が来た。直ぐに、母を庭の竹やぶに避難させた。そして、2階の書斎に戻ると、棚の本は落ち、ステレオは落ちていた。震源地は何処だろう。TVをつけても停電で駄目。電話も通じない。インターネットも繋がらない。ポーターブルラジオを押入れから探し出し、電池を入れたら、震源地は東北地方で、津波に対する注意をアナウンサーは、繰り返し喚起していた。午後9時電気が付き、TVを見てことの重大性を知った。
それから数日後始まった“計画停電”。書きかけの海水淡水化に関する特許は、急遽災害地における、海水から真水を造る簡易淡水化装置に形を変え、水の安全保障を第一に図面の描き直しと文書書きに没頭した。停電中でも特許書きを継続するために、車からバッテリーを降ろし、飛行機の中でコンピュータに電源を与えるために購入したDC/ACコンバータを繋ぎ、100V非常用電源を急ごしらえし、蛍光灯スタンド1基とパソコン1台を作動させた。
この非常灯を作りながら65年前を思い出した。当時5歳だった私は、佐賀県の筑後川岸の諸富で敗戦を迎えた。父の勤務していた工場では航空機の燃料に供するためのアルコールを作っていた。この工場の倉庫が筑後川に沿って並び、倉庫の最後に、3軒の社宅が並んでいた。私たちが住んでいたのは2号社宅。倉庫はB-29の焼夷弾投下を浴び、倉庫と1号社宅まで延焼。幸いにも我が家は延焼を逃れた。倉庫に貯蔵されていた砂糖は何日も何日も燃え続けた。消防は筑後川の水を消火に使った。その水が溜まって、至る所に、真っ黒い砂糖水の池ができた。この砂糖水を目当てに、何千人もの人々が一升瓶を抱え、筑後川に架かる佐賀線の鉄橋の上を歩いて、集まってきた。朝起きてみると、我が家の縁の下はそれらの人達が寝泊りをしていた。家の周りに父が植えていた青いトマトもマクワ瓜も食べられてしまっていた。そんな状態が1ヶ月間続いた。
その砂糖水騒動が一段落した頃から、毎晩“ローソク送電”や“線香送電”が始まった。現在の“計画停電”の元祖である。西に太陽が沈み、辺りが暗くなると、家庭には電気が送られる。しかしその明るさはローソクの炎のように暗い。これを称して“ろうそく送電”と言い、更に暗くなると線香のように電球のフィラメントだけが赤く色ずく。これを“線香送電”と呼んでいた。
その真っ暗な“ローソク送電”や“線香送電”が始まっても、アルコール発酵が専門の父は残業で工場から帰ってこない。夕食は父が帰宅してからが我が家の決まりである。腹を減らす育ち盛りの3人の子供たちを前に、母が始めたことは『暗算』であった。食卓の前に座って父の帰りを待つ我々に、5+3+8+18では、何時も真っ先に答えを出すのは、負けず嫌いの一番上の妹であった。そんな折、お隣の友達の住む3号社宅の茶の間からは、煌々と明かりが漏れていた。羨ましくて仕方が無かった。今にして思えば、彼の父親は工学部出身だと言っていたから、蓄電池かトランスで昇圧して、電灯を灯していたのだろう。今般の“計画停電”が、電力事情が今以上に悪かった65年前を思い出させた。
日本が太平洋戦争に敗れた敗戦記念日8月15日。この6日前の、昭和20年8月9日、母は我が家の菜園のナス畑でナスを採取中に西の空が赤くなったのを見たと言う。長崎の原爆の閃光である。8月6日、広島、そして9日には長崎に投下された原子爆弾。この人為的に撒き散らされた放射能。一生、草木も生えないだろうとまで言われた広島も長崎も、見違えるように復興した。そしてその悪夢から65年経った今、また放射能を放出してしまった。今度は日本人の手で放出してしまったのである。世界で唯一の被爆国日本であるからこそ、原子核の研究は大いにやるが、『原子核には手を染めません』と宣
言し、原子力より安全で、かつ資源の枯渇も無いエネルギー源を見出して行かねばならない。そして、福島、宮城、岩手が新産業都市として復興する事を信じて止まない。
2011年4月15日
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